1.プロローグ

 毎週水曜日、私・花咲春の働くパン屋では新作のパンが発売される。パン屋の店長は謂わば天才と言われる人間に分類されるようで、この業界でも指折りの有名人らしい。しかし本人からはそんな雰囲気を感じられず、私にとってはただただ気前の良いパン屋の店長という印象だった。

 そんな店長の経営するこの店はこの広い街でも評判が良い店だった。だからと言って著名人達ご用達の高級パン屋ではない。毎日買いに来るのは近所の人たちや学校帰りの学生など地元に愛される店で、かく言う私も小学生の頃からお小遣いを貯めて学校帰りの買い食いをしていたほどのファン歴を持つ。

 庶民派で、お財布にも優しいだけでなく味も抜群なここのパンで育ってきたと言っても良いくらい通いつめていた。

 大学生になって初めてアルバイト募集のチラシが張り出されていることを知り、それがきっかけで働いている。パン屋の店長とはもう顔なじみであったので、難しい面接もなく採用された。働いてみて初めて知ったことは、ここの店長は無類のパン好きで、寝てても起きててもパンのことしか頭にないパン狂いの人間だったこと。私含めたスタッフがいなければ店が回らないくらいパン以外のことに興味がない。だからベテランのおばさん含めた精鋭たるメンバーによってこの店は運営されている。入ったばかりはベテランしかいなく不安だったが、一年も働けばもうすっかり店長の扱いもこの店のことも把握し、一番忙しいこの水曜日のシフトも任せて貰えるようになったのだ。
 水曜日の新作お披露目会。名前こそいいが、実態はパン狂いの店長が毎日のように開発する新作を何とかセーブするために定められたものだった。毎日のようにバイト終わりに賄いとして貰う新作(仮)パンはどれも美味しく、おかげで一年前と比べて五キロも太ってしまうほど。そんな新作を毎週発表を楽しみにしているファンも多く、水曜日の来店数は他の曜日とは比較できない程倍増する。ちなみに私もその内の一人で、販売前にこっそり取り置きをするために水曜日のシフトはかかさない。
 夕方の四時、この時間に商品の補充が行われる。私は出来立てのパンを店頭に並べる作業に追われていた。もう少しすれば、今日も新作パンを目的に常連さん達がこぞって買いに来るのだ、だからそれまでには並べ終えておく必要がある。急いで補充作業を行い、そしてある程度の補充が終わったタイミングでカランと鈴の音が鳴り、誰かが来店したことを知らせる。ちょうどバックヤードに引っ込んでいた私は出来立てのパンと共に顔を出し「いらっしゃいませ」と声をかける。
 入って来たのは、この店で見たことのない、白シャツに黒のスキニーのシンプルな恰好だが、それだけでモデルのように見える青年。芸能人にでも会ったかのような感覚に陥っていた私をよそに、青年は私の顔を見て新作パンが置かれていた棚を指さした。
「すみませーん、この新作パンって売り切れですか?」
「今もって行きますのでお待ちください!」
 青年が指をさしたパンはちょうど今私が手に持っているものだったので、慌てて新作パンを抱えて青年の元へ急いだ。近くに行くとやっぱり私より背が高く、思わずかっこいいなと見惚れていると、目が合ってしまう。変なことを考えているのが顔に出てないことを祈って、近くにあったトングでパンを掴んで差し出した。ホカホカの新作パン、今週はカボチャがたっぷり練りこまれたもので強く掴んでしまうと崩れそうなほど柔らかい。出されたトレーにそっと一つ置き、青年の顔を見上げて尋ねる。
「一つで良いですか?」
「ありがとうございまーす、一つで!」
「はい、どうぞ」
「どうも! あと、おすすめってあります?」
「おすすめ、ですか? うーん……どれもおすすめですけど、これとか?」
 不意に聞かれたおすすめの言葉に、私は店内を見回す。正直このお店にあるパンはどれも店長の渾身の作品なので優劣をつけがたい。でも初めてきたお客さんだし、せっかくなのでまた来てほしい想いもあったので、私は自分のお気に入りのパンを選ぶことにした。小学生の頃からあるアールグレイ香るアップルパン。リンゴの果実がたっぷり詰まったこのパンは甘すぎず・紅茶の香りも強すぎず、老若男女問わずに人気のあるパンだった。特にこの季節はリンゴが旬なので、この時期にこそおすすめしたい商品。
「リンゴの形をしたパンって珍しいなー! じゃあこれも!」
「あ、ありがとうございます! 何個になさいますか?」
 お気に入りを買ってくれることが嬉しくなるが仕事中なのを思い出し、ハッと口を抑えて青年に何個いるかと聞いた。その問いに対して青年は、トレーを持っていない手を上げて一の数字を示す。ニカッと笑った表情がとても神々しく眩しい。いや実際には光っていないのだが、思わず目を細めてしまう。
 青年はその他いくつかパンを選んでからレジへと進み、私が商品計算をしている間に「俺最近引っ越して来たんスよね」と溢した。どうやら仕事の関係でここに越してきたようで、ひと段落したため近くを散策をしていた、その帰り道だったらしい。ちょうど前を通りかかった時に、出来立ての良い匂いに釣られて入って来たと言いまた笑った。何も質問していない私にどんどん話かけてくるこの青年は、私と目が合うとまたニカッと眩しい顔を見せる。
「たまたま通って新作に出会えるって何かラッキーっスね」
「本当に、出来立てなので良かったら直ぐに食べてください」
「出来立て! めっちゃツイてる俺」
「ふふ、本当ですね」

   ◇

 会計が終わり紙袋を手渡した時、青年の腕に怪我があるのを見つけてしまった。見る限り血は止まっているようだったが中々に痛そうな傷口。あの青年が店を後にしたあとも、「あのまま放っておけば黴菌が入って治りも遅くなりそうだな」と思った私は、迷いに迷ってレジ下にある引き出しから絆創膏を引っ張り出し青年を追いかけることにした。ありがたいことに店前は一本道なので、青年を見つけてから追いかけることは容易だった。少し坂道になっている道を全速で駆け、あがった息で呼び止めようとするが、不運なことに青年の名前を知らない。
「あの……! そこの! パンを買ってくれたお兄さん!!!!」
「え、俺? あぁ、さっきの店員さんじゃないスか。どうしたん?」
「いや、ちょっと気になって……その傷にこれ使ってください」
「うお、怪我してたんだ俺。わざわざありがとう」
 何とか特徴を叫びつつ呼び止めることに成功した私に、驚いて足を止める青年。息絶え絶えに追いつき、肩で呼吸をしながら手に持っていた絆創膏を差し出した。握りしめて少し歪んだ絆創膏は不格好で少し恥ずかしかったが、傷口と絆創膏を交互に見た青年は受け取ってその場で傷に絆創膏を貼る。そうして少し屈んで私と視線を合わせてくれた。お礼を言ってくれているその笑顔が眩しくてまた目を細めてしまう。そうして軽く二、三言の言葉を交わしてから青年を見送るも、なんとなく後ろ姿を見ていたら、なんだかもう一度あの青年の笑顔を見たいと思ってしまった私は考えるよりも先に両手を口元にあてて大声を出していた。
「来週にも新作が出ますのでまたご来店ください……!!!」
「おう、また行きます!!」
 思っていた以上の声量で一息に叫んだので、青年はビクっと反応し、勢いよく振り返った。叫んだ相手が私だと認識した青年は片手に紙袋を抱えたまま、自由になっている手を大きく横に振って返事をしてくれたのだ。遠かったので表情を見ることが出来なかったが、また私の視界がパーっと明るくなり、眩しさだけはしっかり私の元へ届いた。

© 2016 両手で掴んで